がん闘病記と日々雑感

がん闘病記と日々雑感

~右往左往の備忘録~

④<精密検査へ>2016年12月

<12月21日pm>

J医院の食道外科へ。1時予約だったが結局4時過ぎまで待たされる。
担当のK先生は落ち着いていて感じが良い。信頼できそうだ。T病院からの内視鏡画像を見て、すぐに精密検査をしましょうということになった。今の痛みについて質問すると、ガンで食道が肥大化し隣接の臓器を圧迫している痛みでしょう、とのこと。痛み止めを処方してもらう。
 
その日の検査はとりあえず血液検査やレントゲンなど。手術や入院のための下準備もする。色々やっているうちに6時を回る。夫はテキパキと献身的に手伝ってくれる。私は入院の下準備、夫は他の手続きと、手分けしてやっていると、後ろに気配を感じ、振り向くと涙顔の夫がいた。痛みで苦しいのに色々手続きをしている私を見て辛くなったと言う。私が「こんな楽しくないことに付き合わせちゃってごめんね」と言うと、「二度とそんな事を言わないで。ありがとうは良いけどごめんねは言っちゃダメだ」と言われた。私と同じくらい精神的にキツイ1日なのに、なおかつ私を励ましてくれて、本当にありがたい。1人だったらこの状況に耐えられなかっただろう。その後、今後の検査スケジュールを聞きに食道外科に戻る。
 
翌日から年明けまでの検査は8種類あった。ただじっとしていれば良いものから内視鏡や大腸バリウムなどきついものまで。入院はせず、外来で受けていくのだが、中々忙しいスケジュール。助手の先生が各検査について、その目的とやり方など、詳細に説明していく。
年内は2種類だけ。全ての検査が終わったら、がんのステージが判明し、治療方針も決まる。その診察日は年明け1月11日だ。
会計と薬の受取りを済ませると夜8時すぎ。長い1日だった。
 

<~2017年の年末>また受験の結果を待つ状態になった。

私はガンなんだ。何度も呟くが、悪夢としか思えない。
現実感が全くない。
しっかりしなくてはと思うが、どうしっかりして良いかも分からない。
自覚症状があるということは、早期ではないという事。死ぬかもしれないということが何度も頭をよぎる。ふと、身辺を整理して夫に伝えておかなければと思いつく。終活ノートの作成だ。治療が始まったらそれどころではなくなるだろう。今のうちにまとめておかなくては!と、にわかに焦ってきた。
通帳、印鑑、確定申告など様々な資料の場所、カードのパスワード、解約すべき様々な年間契約、引き落としのタイミングや更新の時期。それから葬儀のこと。遺影の準備、お棺に入れて欲しいもの、最後に着る服の準備、友人への告知の仕方(これはfacebook が便利だと思った。友人に私の名前をタグ付けして告知して貰えば良い。普段使っていないfacebook だが、こういう時に最適なツールだと思う)
葬儀の時、夫は落ち込んで臨機応変な動きは出来ないだろうから、適切なアドバイスが出来そうな友人の候補をいくつか出しておく。(私たちは社内結婚のため、共通の友人が多い)
葬儀の祭壇のこと、自宅での祭壇のこと…その他もろもろをまとめ、作成した。
A4で3枚だった。人生なんて、A4 3枚で片がつくんだな、と思った。
 
終活ノート作成に2日かかったが、そうしているうちに少し落ち着いてきた。仕上げたという達成感で気持ちがすっきりとし、それと同時に告知のショックからも立ち直ってきた。止まっていた思考が再び動き出したのだろう。感傷的になっていないで、今やるべきことをやろう。
 
まずは、母に報告しておかなくてはと思った。今まで病気の連絡は事前にはしてこなかったが、今回は生死に関わっている。さすがに隠しているわけにはいかないと思った。が、どう言えば良いだろうと悩み、夫に相談すると、弟から伝えてもらえば?と言う。負担を押しつけるようで悪いと思ったが、「色々手伝ってもらおうよ」と言われ納得。遠慮している場合ではない。弟に電話し、ガンの事を伝える時、冷静なつもりだったが声が震えた。それを聞く相手の気持ちになってしまったのだ。弟は沢山の励ましの言葉の後、母への報告を快く引き受けてくれた。
 
それから保険コンサルタントに連絡。ガンが確定したことを伝え、必要書類を送付依頼する。
がん保険は解約してしまっていたが、その他に医療保険と、三大疾病+要介護で一時金がでる生命保険に入っていた。
ざっと概算し、治療費は何とかなりそうだと安堵する。
それから高額医療費免除の申請。ややこしい役所言葉にイラッとしながらも何とか申請書を提出。
 
その後、本格的に食道ガンについて調べ始めた。まずはそれまで、ネット情報を収集してくれていた夫に初歩的なことを聞く。各ステージの意味(ステージは数字の後にさらにABCと分かれているのをその時初めて知った)、標準治療と呼ばれる手術・放射線・抗がん剤の三大治療のこと、5年生存率とは?等々。
また、お勧めのサイトも聞く。がん専門病院系のもの、がんサポートセンター系のもの。さらにAmazonでいくつかの本を注文。
 
それらの情報をベースに、自分の置かれた状況を推測してみる。衝撃を受けた内視鏡画像や自覚症状から、あまり良くない状況にあることは容易に想像できた。どこまで広く深く入り込んでいるかによってステージは変わるが、いずれにしても辛い治療が待っているのは間違いない。
 
情報の中には、民間療法や代替療法も多くあった。XXをすれば自然に治るなどと謳っているものも多くあった。臨床中の免疫療法や、食事についてなどは気持ちの余裕ができたら補助的に使用の検討ありと思ったが、自然に治る説はうさんくささを感じるとともに、これがいわゆるガンビジネスかと怒りさえ覚えた。私には、あの白子のような物体が、「自然に治る」ことなどあり得ないと思った。補助的に、または、寛解後の再発防止として、体調を整えることを目的に東洋医学やその他を試みるのはアリだと思ったが、白子退治には治療がどんなに辛くても、効果が立証されている標準治療で立ち向かうしかないと思った。
 
ただ、この頃に調べていたのは、ガン細胞を壊滅させるにはどうしたら良いか、ということで、後遺症について考える余裕はなかった。すぐにそれを後悔することとなる。
 
この時期の一番の悩みは食べ物と減り続ける体重だった。喉の詰まりと痛みで固形物を食べられなくなっていたのだが、明治のメイバランスも、病院で処方されたエナジーエンシュアというドリンクも、匂いだけで吐き気がするようになってきていた。そこで、3分がゆなら喉を通るかもと試してみた。この時のおかゆの美味しさは忘れられない。それにイクラなど栄養価の高いものをかけて食べるようにした。私が食べやすい形のレンゲが欲しいというと、夫が4種類のレンゲをそれぞれ2本ずつ買ってきた。どう考えてもそんなに必要ないのだが、その気持ちが本当に嬉しかった。夫は、カロリーの高い飲み物や水素水、おかゆに合うもの、卵豆腐やプリンなど、様々なものを日々買ってきてくれた。いつもその量が多すぎるのだが、あとで聞くと、「あの頃はなにしろ、いてもたってもいられなかったんだよ。何をしていいか分からないし、何も出来ないし」と言っていた。今でも、その8本のレンゲを見るたびに嬉し涙が出そうになる。
 
だが、体重は減り続けた。元々痩せ型で、油断するとすぐに2キロ程度は瘦せてしまう体質だった。体重は、趣味であるゴルフの飛距離に直結する。見た目は気にしていなかったが(今更ビキニを着たいとも思わないし)、ゴルフの飛距離は重要だ。飛距離は体重と連動する。体重が落ちれば飛距離も落ち、それをカバーするために無理をして関節を痛める、その痛みをかばってスイングを壊すという悪循環に陥る。そのため、体重が落ちないよう日々気をつけてきたのだ。それがあっという間に8キロ落ちて、40キロになってしまった。40を切る数字を見たくなかったため、厚めの服を着て、体重が多めに出る夜に測っていたので、実際は30キロ台だった思う。毎晩体重計を見つめながら、またゴルフが出来るようになるだろうかと寂しく思った。